太平洋戦争(第二次世界大戦)の体験談

体験談記事

太平洋戦争(第二次世界大戦)の体験談

Yさんから聞いた戦争体験を綴ります

Yさんは、第2次世界大戦が始まる前に、最初に結婚したお相手とはうまくいかずに、実家に戻っておりました。
当時は1人の母親が10人のこどもを産むことも珍しくなく、Yさんのおうちも子だくさんでしたから、Yさんも母親を手伝って幼い弟や妹の世話をしておりました。
その後太平洋戦争が始まって最初の頃はよかったのですが、戦況が苦しくなるにつれ、街では食べ物なども手に入りにくくなっていったそうです。
そうした中、「出戻り(今で言う「バツ1」)」のYさんにとっても実家での居心地が悪くなっていきました。そして、周囲の人がYさんの父親のところへ話を持ち込んできた「大陸へ渡って嫁になる」という見合い話をYさんは承知せざるをえなかったそうです。
「大陸」というのは中国大陸、行き先は中国の東北地方の「満州」です。 Yさんは、顔も知らない人と結婚するために、誰の付き添いもなく一人で満州へ出発しました。
そうして始まった結婚生活でしたが、お相手は教師をしている方で、Yさんや他の人にも優しく、Yさんの2度目の結婚生活は思いがけず幸せなものになったそうです。
そしてYさんは優しいご主人の子どもを妊娠し、ますます幸せになれるはずでした。
でも、日本が負け続け兵隊さんたちをどんどん消耗したせいで、ある日突然、もう若者とは言えないご主人も徴兵されてしまったそうです。
知らない土地へご主人だけを頼りに嫁入りしたのに、そのご主人もいなくなってしまったのです。
あまりのショックに予定日よりも1ヶ月も早くに陣痛が来てしまったけれど、赤ちゃんはなんとか無事に産まれ、優しいご主人の帰りをそこで待つことにしたそうです。
しかし、とうとうYさんの住む街でも、「ソ連兵が攻めてくるから逃げろ~」と告げられる事態になり、女こどもが逃げる支度をした頃には、頼りの兵隊さんたちは誰も居なくなっていて、
髪を短くし、顔も黒く塗って、目立たないように移動して、なんとか日本へ帰る船に乗れる場所までたどりついたそうです。
しかしなかなか船には乗れず、待っている間に亡くなった人も沢山いたそうです。船では全然水も与えられず、喉の渇きに耐えるのが苦しかったそうです。
Yさんはなんとか耐えられましたが、Yさんの赤ちゃんには試練が大き過ぎて、日本の土を一緒に踏めたものの、すぐに亡くなってしまったそうです。
Yさんの赤ちゃんに限らず、何人も亡くなったそうです。
頼りになるはずのご主人も亡くなってしまい、Yさんは再び肩身の狭い実家へ戻ることになりました。
その後Yさんはどうなったかというと、2年間のシベリア抑留を終えて帰国し、子連れの方との再婚を果たし、その方とは今では金婚式を迎えられたそうです。
Yさんの実家はあまり裕福じゃないし子だくさんだったので、離婚や死別して実家に戻っても居場所がなかったのです。
しかし女性が職業について自立するのも難しく、結婚という手段しか見つからなかったのです。
現代の女性なら、実家にいずらければ、職業について自立することが可能です。

戦時中の配給とは

配給が大豆だけになって、調味料とかも無いからただ炒っただけの大豆を5粒とか10粒とか数えながら食べていました。

最後にこんな方へのメッセージ

戦争中でもないのに、餓死している人のニュースを聞くと、残念でなりません。
福祉の援助の手が伸びるまで何度でも座り込んででも助けを求めてください。

編集後記

太平洋戦争により、多くの方が戦争の真意を知らず犠牲となりました。たった70年前の事実です。みなさまが住む地域の70年前を想像して見て下さい。そこで生まれるはずだった子供や、幸せになるはずだった若者たちが、犠牲になったのです。8月15日は日本が忘れてはならない日であり、国民の全てが毎年振り返る必要があると思います。全てのカレンダーに「終戦日」と記される事を願います。

戦争イメージ

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